『水戸学』とは何か(3)

水戸学の特色と影響


水戸学の特色としては、第一に、『弘道館記』に「学問・事業、その効を殊にせず」といい、また「文武岐(わか)れず」と述べているように、学問と政治的実践との一致を目指した点があげられ、したがってその学問の内容は、従前の日本儒学とは異なり、政治的にも道徳的にも現実性の濃厚なものとなった。


日本の固有思想としての神道ないし国学と、儒教思想との結合がはかられたのも、そのためであって、道徳観念は抽象的な理論の形ではなく、具体的な歴史上の事実を通じて説かれ、「孝」を道徳の基本とみる儒学に対して、「忠孝二無し」という日本的な道徳観念が強調された。


第二には、政治上の問題を、一藩の規模においてではなく、常に日本全体の国家的な立場から考察しようとした点が注目される。

これは水戸藩が御三家の1つであるところから、中央政府たる幕府と運命をともにする意識が強かったことに基づいており、斉昭の幕政関与も、同じ意識から出たものであった。


水戸学の尊王思想


したがって水戸学の尊王思想は、幕府と対立する性格のものではなく、天皇の伝統的権威を背景として、幕府権力を強化し、幕府を中心とする国家体制の強化をはかろうとするのが、その本来の意図であった。

 

しかしまた逆に、水戸学が幕府権力の擁護を意図した点から、これを保守的な政治思想にすぎなかったとみるのも誤りであって、水戸学の目指したものは、現状維持ではなく、幕府を中心とした政治改革により、対外的ならびに対内的な国家の危機を克服することであった。

開国後に幕府がこの期待にこたえないことが明らかになったとき、尊王攘夷思想は反幕府の性格を帯び始めるが、そのような可能性は水戸学には最初から含まれていたと考えられる。

 

その意味では水戸学は、近代日本における国家主義思想の主要な源流をなしたものとして評価されるべきであり、実際にも、これを信奉した吉田松陰(1830〜1859)らを通じて明治政府の指導者たちに継承され、天皇制国家における国民教化政策(その具体例としての「教育勅語」)や、その国家体制の思想的支柱をなした「国体」観念などのうえには、水戸学の顕著な影響が認められる。


『水戸学』とは何か(2)

尊王攘夷思想の結実『新論』


幽谷の思想は、門人の会沢正志斎(1782〜1863。名は安「やすし」、通称恒蔵「こうぞう」)に継承され、文政8(1825)年3月の『新論』の著述に結晶した。


本書は、同年2月に幕府が異国船打払令を交付したことを契機として、政治の刷新と軍備の充実とのための方策を述べたものであるが、単に技術的な意味で軍備の充実をはかるばかりでは不十分であるとし、「民志を一にす」ること、すなわち、国民の意志を結合して、自発的に国家目的に協力させることこそが、政治の基本であると主張し、その民心統合のための方法として、尊王と攘夷との2つの方策が重要であることを説いたところに、特色がある。


この考え方では、尊王も攘夷も、それ自体が目的ではなく、国家体制を強化するための手段として位置づけられている。

尊王論や攘夷論は、これ以前からも唱えられていたが、両者が結合されて、整然たる国家主義思想の体系にまとめられたのは、本書が最初であり、日本における国家体制の伝統を表現した「国体」という概念を、初めて提示した点とともに、国家主義思想の形成史上に1つの画期をなしている。


本書は、第八代藩主斉脩(なりのぶ)に上呈されただけで、一般には公表されなかったが、やがて天保年間頃から門人らの手で筆写されて広まり、さらに嘉永年間に木活字本、安政4(1857)年に整版本が出版されて、全国的に大きな影響を及ぼし、尊王攘夷思想の経典のようにみなされるにいたった。


水戸学の教育理念を示した『弘道館記』


斉脩の次の藩主斉昭のもとで、天保年間に藩政の改革が行われるが、この時期に幽谷の子の東湖(1806〜1855。名は彪たけき、通称虎之助)が斉昭の信任を受けて、即用人にまで取り立てられ、実際の政治のうえで斉昭を補佐したので、いわゆる藤田派が改革を推進する勢力の中心を占めることとなった。


特に天保12(1841)年に開設された藩校弘道館は、改革の1つの眼目をなすものであったが、その教育理念を示した『弘道館記』(成立1838)は、水戸学の精神を簡潔な文章に要約したものとして重要である。

館記には斉昭の署名があるが、実際にこれを起草したのは東湖であって、東湖はまた、斉昭の命を受けて館記の解説書『弘道館記述義』を著した。


本書が執筆されたのは、東湖が天保15年から斉昭とともに幕府の処罰をうけて蟄居させられていた期間のことで、弘化4(1847)年に脱稿した。

本書は、『新論』と並んで、水戸学を代表する文献であって、『新論』が政治のあり方を主題としていたのに対し、本書では道徳の問題が主題をなし、明治以降に国民道徳として説かれるものの原型が、そのなかに示されている。

「弘道」の語は、『論語』に出展があるが、本書では、記紀神話に始まる日本の歴史に即して「道」を説き、日本社会に固有の道徳理念を明らかにした。


東湖はなお、同じ蟄居の期間に、『回天誌史』は、同じ時期に作られた漢詩『正気歌(せいきのうた)』とともに、幕末の志士の間に愛誦された。政治的実践者であり、また詩人でもあった東湖の文章には、国家的危機の意識のもとで行動しようとする人々の情感に強く訴えるものがあったからである。


『水戸学』とは何か(1)

水戸学とは


江戸時代後期の水戸藩に興った国家主義思想。


水戸学という語は、広い意味では、水戸藩の学問全体をさし、現在では一般にこの意味で用いられることが多いが、狭い意味では、19世紀に入ってからの水戸藩で発達した独特の学風をさし、この語の成立過程からすれば、後者の意味に限定するのが本来の用法である。


江戸時代にはまた、水府(すいふ)学、天保(てんぽう)学などとも呼ばれ、水戸学という呼称に統一されたのは、明治維新以後のことであるが、ともかくこの種の固有の名称が発生したのは、天保年間(1830〜44)以降のことで、天保学という名称があるのもそのためであり、この頃から水戸藩の学風の特異性が藩外で注目されるようになったことを物語っている。


水戸藩で学問が興隆したのは、第二代藩主徳川光圀が学者を集めて『大日本史』編纂事業に着手したことに由来があるが、光圀の時代を中心とする前期の学風と、水戸学と呼ばれるようになった後期の学風との間には、性格上に大きな差異がある。


前期の学風が、儒学(主として朱子学)の思想を基本とし、歴史の学問的研究を主眼としていたのに対し、後期では、荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666〜1728)の唱えた新しい儒学の思想と、国学の思想との影響のもとで、独自の思想が形作られ、それに基いて現実社会の課題を解決するための政治論を展開することに力が注がれた。


したがって前者は、後者の源流ではあっても、思想の性格として同一のものではなく、水戸学の語を広義に用いる場合にも、前期水戸学と後期水戸学という表現により、この区別を示すのが普通である。


水戸学の成立


のちに水戸学と呼ばれるようになった思想に、最初に明確な表現を与えたのは、藤田幽谷(1774〜1826。名は一正、通称 次郎左衛門)である。

幽谷は、水戸城下の古着商の家に生まれ、立原翠軒(1744〜1823。名は万「よろず」)について儒学を修め、16歳のとき翠軒の推薦で彰考館員に取り立てられ、やがて『大日本史』編修に従事するようになった。


『大日本史』の編纂は、光圀の没後に、本紀と列伝の部が一応の成稿をみて、享保5(1720)年にこれを幕府に献上して以後、停滞の状況に陥っていたが、翠軒の力で再興され、翠軒は天明6(1786)年に彰考館総裁に任命されて、前期に作られた本紀と稿本に校訂を加え、これを出版することを目指して努力していた。


こののち、幽谷は編修の方針に関し本紀、列伝ばかりでなく志表の編修を継続すべきこと、『大日本史』という題号を「史稿」と改めるべきこと、および前期に本紀、列伝につけられていた論賛を削除すべきこと(以上を『大日本史』の三大議という)などを主張して、師の翠軒と対立するにいたり、享和3(1803)年には翠軒を辞職させて、彰考館を主導する地位に立った。


文化3(1806)年には総裁となり、また同5年からは郡奉行として民政の実務にもあたった。

幽谷は学才とともに政治上の見識にもすぐれ、藩の農政の実情とその改革案とを述べた『勧農或問』(成立1799)などの著書があるが、思想上に重要なのは、18歳のとき、幕府の老中松平定信の求めに応じて書いた『正名(せいめい)論』である。


この論文は、君臣上下の名分を正しくすることが、社会の秩序を維持するための基本であるとし、こののちの尊王思想に理論的根拠を与えた。なお、幽谷と翠軒との対立から、藤田派と立原派という学問の対立が藩内に生まれ、これがやがて政治上の党派の争いにまで発展することとなった。


「世界共同体」の課題(2)

戦後世界のめまぐるしい変転

第2次世界対戦後の世界は、植民地体制が全面的に崩壊し、中国、東欧が共産主義へ移行するなど様相を一変させた。

それにもかかわらず、先進資本主義諸国は1960年代に史上前例のない高度成長・完全雇用時代を実現した。

だが、その代価として、初めは緩やかだったインフレーションがやがて悪性化した。


そこへ73年のアラブ石油戦略の衝撃が加わり、資本主義は第1次、第2次の石油不況に陥った。

この長期スタグフレーションから立ち直り始めたのは83年以降である。


政治的独立を獲得した発展途上諸国は資源ナショナリズムと先進国からの援助をてこに、経済自立と生活向上の急速な達成を目指した。

しかし、植民地支配の残したいわゆるモノカルチャー的経済構造、改革をはばむ古い土地所有関係、近代化に必要な人材の不足などのため、経済発展の実績は期待を裏切り、途上国と先進国との所得格差はむしろ増大した。

1971〜74年平均では途上国の1人あたりGNPは先進国の13分の1であった。

それが80年には16分の1になってしまった。


他方、人類史最高の生産力水準に到達して“必要に応じて受け取る”理想郷を実現するはずであった共産主義諸国は、多くの問題点を露呈した。

ハンガリー事件、チェコ事件、ポーランドにおける「連帯」労組抑圧、ソ連のアフガニスタン侵攻などである。

各国内部に共通の問題としては、中央計画経済の非能率、それに挑む改革の不徹底があり、その根底にマルクス主義イデオロギーそのものの時代錯誤的な硬直性がある。


世界の平和と調和を目指す以外に未来はない

現代の世界は、このような不安と激動のなかにある。

先進国における浪費的な生活儀式、環境破壊、途上国における人口爆発、飢餓、局地紛争、そして核戦争の脅威……。


この危機的状況から人類と地球を救う道は、基本的には、国家的利害、イデオロギー抗争の枠をこえた「世界共同体」的な視野から、公正で合理的な解決を探り、調和のとれた平和な発展を目指す以外にはあるまい。

われわれは現在、世界史的な転換点に立っているのである。


「世界共同体」の課題(1)

現代世界の直面する諸問題

先進工業諸国では、物質的生活の”豊かさ”の浪費的性格はますます強まり、先端技術の急速な発展が未来の可能性を大きく切り開くと同時に、価値ある人間生活とは何かが問い直されようとしている。


発展途上諸国の貧困からの脱却の足並みはそろわず、南北格差は広がり、アフリカでは1億5千万人が飢えの危機に瀕している。資本主義の害悪を克服して“真の”自由と繁栄をもたらすはずであった社会主義体制は、一党独裁下の自由喪失と硬直的な経済運営から浮上する道を模索している。


科学・技術と生産力の発展によって地球は相対的に小さくなり、世界各地域の相互依存性は増大して、友好と信頼が必要であるのに、米露を中核とする両体制の対立、地域的紛争の続発によって、世界の軍事支出は増大する一方である。


現代世界がこういう諸問題をかかえこむようになった歴史的経過を概観しよう。


資本主義の発展と共産主義国の誕生

急速な経済発展は産業革命から始まる。

1820年代に世界にさきがけて産業革命を完了したイギリスは、それから約半世紀の間「世界の工場」として圧倒的な優位を保持した。

だが、19世紀後半、特に1870年代以降、ドイツ、アメリカ、フランスなど後発資本主義諸国の成長につれて、海外市場・領土の獲得・拡大競争が激化した。


強国間の利害衝突は第1次世界対戦を引き起こした。

戦争の荒廃の中から、共産主義国ソ連が生まれ、疲弊した西欧資本主義は体制的危機に襲われた。

それを切り抜けさせたのがアメリカの融資を軸心とするドーズ案体制であり、1920年代後半には繁栄期が訪れた。

しかし、アメリカに始まった29年の大恐慌は、世界を未曾有の大量失業、倒産、社会不安の嵐に巻き込んだ。


諸国間の自由な経済交流は、閉鎖的なブロック間の抗争に変わった。

極左・極右勢力の対立の中からドイツ・ナチズム、イタリア・ファシズムが台頭した。

結末は第2次世界対戦であった。


一方、ソ連は1928年に始まった第1次5ヵ年計画以来、重工業と国防工業を急速に発展させた。その反面、スターリンの農業集団化強行の結果、大飢饉が起こって数百万人が餓死し、彼の非情残酷な粛清は大量の犠牲者を出した。「鉄のカーテン」にさえぎられた外部世界では、当時一般の人々はそれを知らなかった。