『水戸学』とは何か(1)

水戸学とは


江戸時代後期の水戸藩に興った国家主義思想。


水戸学という語は、広い意味では、水戸藩の学問全体をさし、現在では一般にこの意味で用いられることが多いが、狭い意味では、19世紀に入ってからの水戸藩で発達した独特の学風をさし、この語の成立過程からすれば、後者の意味に限定するのが本来の用法である。


江戸時代にはまた、水府(すいふ)学、天保(てんぽう)学などとも呼ばれ、水戸学という呼称に統一されたのは、明治維新以後のことであるが、ともかくこの種の固有の名称が発生したのは、天保年間(1830〜44)以降のことで、天保学という名称があるのもそのためであり、この頃から水戸藩の学風の特異性が藩外で注目されるようになったことを物語っている。


水戸藩で学問が興隆したのは、第二代藩主徳川光圀が学者を集めて『大日本史』編纂事業に着手したことに由来があるが、光圀の時代を中心とする前期の学風と、水戸学と呼ばれるようになった後期の学風との間には、性格上に大きな差異がある。


前期の学風が、儒学(主として朱子学)の思想を基本とし、歴史の学問的研究を主眼としていたのに対し、後期では、荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666〜1728)の唱えた新しい儒学の思想と、国学の思想との影響のもとで、独自の思想が形作られ、それに基いて現実社会の課題を解決するための政治論を展開することに力が注がれた。


したがって前者は、後者の源流ではあっても、思想の性格として同一のものではなく、水戸学の語を広義に用いる場合にも、前期水戸学と後期水戸学という表現により、この区別を示すのが普通である。


水戸学の成立


のちに水戸学と呼ばれるようになった思想に、最初に明確な表現を与えたのは、藤田幽谷(1774〜1826。名は一正、通称 次郎左衛門)である。

幽谷は、水戸城下の古着商の家に生まれ、立原翠軒(1744〜1823。名は万「よろず」)について儒学を修め、16歳のとき翠軒の推薦で彰考館員に取り立てられ、やがて『大日本史』編修に従事するようになった。


『大日本史』の編纂は、光圀の没後に、本紀と列伝の部が一応の成稿をみて、享保5(1720)年にこれを幕府に献上して以後、停滞の状況に陥っていたが、翠軒の力で再興され、翠軒は天明6(1786)年に彰考館総裁に任命されて、前期に作られた本紀と稿本に校訂を加え、これを出版することを目指して努力していた。


こののち、幽谷は編修の方針に関し本紀、列伝ばかりでなく志表の編修を継続すべきこと、『大日本史』という題号を「史稿」と改めるべきこと、および前期に本紀、列伝につけられていた論賛を削除すべきこと(以上を『大日本史』の三大議という)などを主張して、師の翠軒と対立するにいたり、享和3(1803)年には翠軒を辞職させて、彰考館を主導する地位に立った。


文化3(1806)年には総裁となり、また同5年からは郡奉行として民政の実務にもあたった。

幽谷は学才とともに政治上の見識にもすぐれ、藩の農政の実情とその改革案とを述べた『勧農或問』(成立1799)などの著書があるが、思想上に重要なのは、18歳のとき、幕府の老中松平定信の求めに応じて書いた『正名(せいめい)論』である。


この論文は、君臣上下の名分を正しくすることが、社会の秩序を維持するための基本であるとし、こののちの尊王思想に理論的根拠を与えた。なお、幽谷と翠軒との対立から、藤田派と立原派という学問の対立が藩内に生まれ、これがやがて政治上の党派の争いにまで発展することとなった。